東北の旅日記

posted in: ニュース

東日本大震災津波の発生から12年を迎えた2023年。震災後数ヶ月後に発足した震災孤児への支援チャリティー、エイド・フォー・ジャパンは12年という句切れの年、そして支援してきた子供達のほとんが成人年齢に達したことを受け、震災孤児支援目的でのチャリティー活動を終了する事となりました。それにあたり、今迄の12年を振り返ると同時に、今後この貴重な経験を活かし、更に新しい活動へと発展させるため、宮城県を訪れた様子をまとめました。   私は明美さん亡き後、役員としてチャリティー参加させて頂いたので、実際のところ正味2年強しか活動に関わっていません。今まで、明美さんがどの様な活動を続け、また孤児の皆さんや被災地の皆さんや、この12年間で訪れた方々や出会った土地など、正直あまり良く理解せず、ほぼ白紙の状態で、明美さん巡礼の旅をさせて頂きました。たったの3日間ではありましたが、宮城を訪れ多くの場所に立ち寄り、多くの話を聞き、本当に色々な事を考えさせられました。私が経験した貴重な旅の思いを、今後の活動の原動力になる様、日記という形で書き留めたいと思います。今回の旅を実現させてくださった、齋藤幸男先生、エイドフォージャパンとながってくださった、震災孤児の佳奈さん、真奈美さん、真奈美さんの祖母の精子さん。防災学習の場を提供していただいた、「KIBOTCHA」のスタッフの皆様、大川小学校で説明を聞かせて下さった、遺族の紫桃さんとその他の遺族の方々。伝承交流施設MEET門脇のスタッフの方、その他今回の旅を支えてくれた、エイドフォージャパンのスタッフみんなにお礼を言いたいと思います。   2023年12月1日(金) 本塩釜に午前11時頃着。 齋藤先生が車で駅まで迎えにきてくれる。そのまま、少し早いお昼ご飯を、先生のおすすめのラーメン屋さんでご馳走になる。野菜いっぱいの半玉ラーメンを食べる。野菜もりもりで、とてもおいしかった。ラーメンで身体を温めて、映画「有り触れた未来」の撮影現場を案内してもらう。 トレーラーの初めのシーンに立つ。コンクリートの部分は津波後に出来上がった防波堤。以前この一帯に住宅が建っていた。 宮城県東松島市野蒜地区の沿岸地帯の風景。広い地平線が広がる。この近所に齋藤先生の亡くなられた叔父さんが入居されいた介護ホームがあった。ホーム津波に飲まれ先生の叔父さんを含む多くの方々が、命を亡くされた。とても美しい海岸線が広がる、野蒜海岸。宮戸諸島が右手(南)に広がっている。この辺りは島がなく、津波を遮るものが無かったので、津波は浸水高10.35mまで達し、山の裾野までやってきたとの事。 野蒜海岸同様、この辺りは更地で何もない。以前ここにたくさん集落があったことが想像できなくて、なんとも間抜けな表情で立ち尽くしてしまった。   映画の撮影ロケーションを回った後、震災後廃校となった野蒜小学校を改修して創られた子供未来創造校 KIBOTCHA(「希望」「防災」「未来 (Future)」を組み合わせた造語)で齋藤先生から個人講習を受ける。KIBOTCHAは「これからの時代を支える子どもたちの未来に命の大切さを伝えたい」という思いから、防災教育を中心した様々な活動を発信する、宿泊、イベント学習施設。     ここでみっちり東日本大震災の動画や、震災当時野蒜小学校6年で、おじいさんを亡くされた志野ほのかさんや、小山綾君、齋藤茉弥乃さんが現在も語り部として活動を続ける様子を紹介。彼らがどうやって語り部として自分たちの気持ちを吐き出し迄に至ったか、心のケアは一生続き、その為には自分たちの経験を伝えることが、防災の観点からも、そして震災体験と共に生きてゆく為にも、どれほど大切なのかを教わった。特に、印象に残った言葉は、「忘れる事と乗り越える事は違う」「12年経って町は変わっても、心の中は変わらない」の二つ。   他にも明日訪問予定の復興住宅地区、「日本一住みやすいまち」を目指し、その目標を果たした、東松島市あおい地区を紹介してもらう。盛りだくさんの講義終了後は、KIBOTCHAのレストランで回鍋肉定食をご馳走になって本日の予定終了。お腹も心も頭も超満タンな日でした。   2023年12月2日(土) ビジネスホテルの朝ごはんにあまり期待せず食堂に降りてびっくり!まるで料理上手な友達の家に来たかのようにとても家庭的なブッフェ!ずんだ餅までついてくる。朝からホクホクでいざ、2日目の始まり。 2日目は、大川小学校、石巻で孤児の方々との面会、そして夕方は昨日紹介してもらった復興住宅のあおい地区で、三重県の四日市大学環境情報学部の学生との防災研修に参加するとういうスケジュール。 8時過ぎに齋藤先生がホテルまで車でお出迎え。本日もよろしくおねがいします! まずは大川小学校のある石巻へ。大川小学校はこの震災の被害の中でも一番の惨事を招いたところで、生徒74名、教職員10名の被害者を出した。被害の大きさだけで息が詰まる思いがするその地を一体どう訪れるべきなのか、あやふやな気持ちで向かった。 齋藤先生が運転する車は北上川に沿って進む。津波によって土地の高低さがその地域の運命を露わにし、川の北、低い土地は津波に飲み込まれ更地と化し、その反対、南は以前の住居が残っている。そんな風景が河口付近に近づいてゆくと、建物が消え、昨日行った野蒜海岸のような、広い空間が広がっていった。 左が新北上川、右が富士川。この二つの川が交差する三角地点と言われるところに、なぜか大川小学校の子供達は避難するため教師の後に続き、74名の子供の命が失われた。その地点に立ちあたりを見渡す。   齋藤先生がいったんここで車をとめ、ここに、たくさんの子供達が流されてきたんだよと、教えてくれた。その対岸に大川小学校の遺構が見えた。 再び車に乗り込み、大川小学校へ。先生に説明をしてもらう予定だったが、運よくその日は語り部ボランティアの遺族のお父さんが3人も詰めていた。少し遅れて、遺族のひとり、紫桃さんがガイド解説をしているグループに入れてもらう。紫桃さんは当時5年生だった次女の千聖さんを亡くした。今でも紫桃さんの他、子供を亡くした親たちが大川小学校で何が起こったかをボランティアで説明してくださっている。 紫桃さんは廃墟となった校舎を指差しながら、震災前とその後を対比しながら、淡々と切実に説明してくださった。ひとつひとつの言葉が丁寧で、子供達の死を無駄にしたくないと言う思いがひしひしと伝わってきた。そんな静かなお話の中に行き場のない怒りが沸々と爆発させないよう、必死にコントロールされている様子に心を打たれる。 もう「悔しい」と何度言っても終わらない、まるでそんな無念さが、未だ見えない津波になって、ぐるぐる渦巻いているようだった。 その惨事を引き起こした事実と理由を追求した親族たちが石巻市と宮城県に対して裁判を起こした様子を記録した自主制作ドキュメンタリー映画「生きる」が2023年公開されたところだ。紫桃さんは丁寧に残された遺構の各所を指しながら、当日何が起こったのかを、淡々と解説。そして最後には保護者みんなが心から望んだ学校裏の高台にみんなで登った。当日この高台に避難した一人の教師と一緒にもし、みんながここに避難していれば、みんな助かったのにという無念を紫桃さんは 今でもそのやり場のない怒りを必死に噛み殺すように語ってくださった。 大川小学校の後は、早めのお昼ご飯。宮城の最高に美味しい回転寿司!で腹ごしらえ。海の幸が豊かだというのはもちろんの事、回転寿司なのに特別美味しい理由は、皮肉にも震災によって店を失った一流の寿司職人が握っているからだとか。   美味しいお寿司を食べ、石巻グランドホテルへ。エイドフォージャパンが援助を続けてきた真奈美さんのお婆さんの精子さんと、佳奈さんに会う。真奈美さんは大学生。その日はアルバイトで忙しく会うことができなかったけれど、その代わりに精子さんが来てくださった。二人に会うのもお話しするのも全くの初めてで、ちょっと緊張していた。それに話の内容も、震災当時の様子、チャリティー発足時様子、今までの心のケアーの話から今現在の状況。そして明美さんが亡くなりその後チャリティーを受け継いだ事など、かなり重たい内容の話だった。だが、精子さんの底抜けの明るさと、そのサービス精神のおかげで、話は驚くほどに弾み(!)とても楽しい時間を過ごすことができた。そんな中で、一番印象的だったのは、精子さんが「何もしてあげられないけれど、そこにいることが大切。何かをしてあげるではなく、必要な時に寄り添ってもらえる存在があるのと無いのとでは大きな違いだ。」という言葉。 震災で傷ついた心を完全に癒すことは無理で、心のケアは一生の問題。被災した子供達は成長してゆく様々な段階で、未体験の人達からは考えられない苦悩が次々襲ってくる。大人になり恋愛をするにしても、その相手が被災未経験者であれば、自分たちが子供の頃に体験した思いをどうやっても理解してもらえないという思いを拭えず、頑なに昔を否定することで相手にあわせてゆこうとする等。 エイドフォージャパンがチャリティーで12年間続けてきた孤児たちへの支援というものがいかに重要なのかが、心に真っ直ぐ伝わった。そんな気持ちを経験したのは、初めてのことで、明美さんが設立したチャリティーが今後形を変えて、こうやって出会った東北のみんなと繋がりを保ち続けることが、今後の目標になると痛感した。また絶対に会うことを約束して、笑顔で別れた。 石巻グランドホテルを後にし、石巻市震災遺構門脇小学校とMEET門脇を訪れる。午前中に訪れた大川小学校と違い、石巻市公認の震災遺構である門脇小学校は、展示品やその保存状態は完璧に整い、案内がなくても自分で簡単に閲覧できるとてもわかりやすい立派な博物館。大川小学校も門脇小学校も被災したことに変わりないが、市を相手どり訴訟を行った大川小学校が、公式な遺構として認識されていない現実が、被災の傷の違いを象徴しているかのようだった。MEET門脇に展示されている日和幼稚園の送迎バスに残された幼児5人が命を落とした。その被害者のひとり佐藤愛梨ちゃんの靴が展示されていた。 今まで、チャリティーに関わる事で、震災をある程度理解していたつもりだったが、その被災地を自分の目で見て、実際その地を歩き、被災者の方の話を聞くことで、自分は現実味のない頭の中だけの理解だったと圧倒された。その情報と経験したことがあまりにも深く、言葉としてまとめられなかった。何か得体の知らない何かにうちめかされたという感覚から、集めた資料や購入した書物、齋藤先生に頂いた著書を読んでも、命の大切さをずっしりと感じるだけで、戸惑うばかり。どうしてもその被害の悲惨さ、悲しさから何か活動をするということの難しさを、ほんのちょっとだけ理解した気がした。そんな中、齋藤先生のその行動力と、その明るさ、その寛大さに感服。 … Read More